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大河ドラマ おんな城主 直虎 登場人物その後

おんな城主 直虎

大河ドラマ「おんな城主 直虎」最終回の感想です。

井伊直虎の物語としては、1582年没という事で戦国時代はこれから豊臣秀吉が来て、家康が天下を取ってという先があります。

直虎に登場した人物で存命だった人たちは、その後どのような最期を迎えたのか調べてみました。ただし、Wikipedia調べ。

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井伊直政

井伊の赤鬼と称された、井伊直政。直虎最終回では、小牧・長久手の戦いまでが描かれましたが、その後も徳川四天王の一人として徳川家を支えました。

昨年の真田丸で描かれた上田合戦では援軍としてかけつけて撤退戦に参加しています。その後も、豊臣政権下の徳川勢として活躍しています。「軍師官兵衛」でも描かれましたが、秀吉亡きあと黒田長政を味方に引き込む事にも成功しています。

関が原の戦いでは、最近では「ドリフターズ」で有名になった島津豊久を打ち取るなど活躍していますが、この戦いでの負傷が後に死に繋がる事となるようです。真田丸には登場しなかったのですが、真田昌幸、信繁父子の助命にも尽力したのが直政だったようです。

1602年に死去しているので、直虎よりも短命だった事になります。井伊家は、その後徳川幕府で代々大老などの重臣を努めています。

小野朝之(万福)

この後も直政に従って、多くの合戦に参加して活躍したようです。子孫は、井伊家の家老を務めるなどしていたようです。

南渓和尚

直虎死去より7年後の1589年に亡くなっています。龍潭寺の住職は傑山が引き継いだようです。

傑山

井伊直政の元、数々の戦に参戦したようです。直虎でもあったように、弓の達人だったようで、傑山が討ち取った兵も数多くいたようですね。なお、南渓の後をついで龍潭寺三世住職となっています。ただ、1592年になくなっているので3年ほどの期間という事になります。

昊天

昊天も傑山とともに、井伊直政の元で戦に参戦していたようです。直虎だとそんなに強そうにみえないのですが、結構な武者だったようですね。その後龍潭寺五世住職にもなっています。1644年没なので、直虎に出ていた人の中では一番後に亡くなった事になるようです。

中野直之

その後も、直政の家臣として従軍していたようです。1605年没という事なので、直政より後に亡くなっています。子孫は、その後も井伊家の家老をつとめるなど活躍したようです。

奥山六左衛門

井伊家の家臣として活躍。彦根藩では築城工事などに携わっていたようです。1629年没なので、かなり長生きした事になります。子孫は明らかではないですが、元々井伊家の親類なので井伊家の家臣として残ったと思われます。

瀬戸方久

徳川家家臣となっていたようですが、最終的に1606年に処刑されたとされています。方久だけは最期を知らなくてよかった気がしました。

しの

直虎の死より3年後の1585年に死去。龍潭寺の墓では直親の隣にあるとありますが、直虎も隣だったような。直親は、直虎としのに挟まれてるんでしょうかね。

高瀬

その後、直虎で、直政の配下となった川手家に嫁いでいます。なお、夫の川手良則は1601年に失くなったようで、高瀬は1634年に亡くなっています。

今川氏真

その後は京で暮らしていたようですが、最終的に品川に屋敷を与えられていたようです。子孫は、徳川家で高家として重用されたようです。戦国大名としては早くに滅亡しましたが、結果的に子孫が生き残ったのは氏真の功績でもありますね。1615年に江戸で亡くなっています。

松下常慶

その後の足取りはさだかではないですが、徳川家家臣ではあったようです。1624年に亡くなっています。

近藤康用

直政に仕えた頃には既に足が悪くなっていたので実際に戦に出ていたのは息子の秀用だったようです。直虎がなくなってから6年後の1588年に亡くなっています。子の秀用は直政に仕えていましたが、直政のやり方に耐えられず一旦出奔していたようです。その後、徳川秀忠に召し出されました。井伊谷藩主となったようですが、所領は子で分割したため旗本としてその後は仕えていたようです。

菅沼忠久

直政の配下となったようですが、直虎と同年に亡くなっているので、その後は子の忠道が仕えたようです。

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