最近、ネタ切れもあってサッカーブログの方で青森県でJリーグ入りを目指している3クラブについて書こうと思いついたのですが。そもそも、人口的にも少ない青森県にどうして3クラブもあるのかという話をしないといけないなと思いました。
その話をするには、青森県内にある地域の対立について書いておかねばという事になります。
津軽と南部の対立
古くからあるネタではありますが、津軽と南部の対立についてです。
全体の話のとしては、こちらのブログ記事がいい感じにまとめられているかなと思います。
この記事にもあるように、津軽と南部の対立はWikipediaでも項目ができるほど有名な訳です。
さらに、青森県のサイトでも質問箱に書かれています。
また、ミュージシャンの坂本サトルさんがブログで「津軽と南部」という題材でこの問題についてよく調べてくれています。
実際に、県内を回っての感想もあるので、実感がありますね。
「津軽と南部」
青森県の事を良く知らない人にとってはピンとこない話しかも知れないが、青森県の中には「津軽」と「南部」という2つの文化が存在している。この2つの異なった文化の誕生と対立の歴史は思いのほか古く、そしてかなり複雑である。
僕も少しばかり調べてみたのだが、とにかく資料が膨大な上に、津軽、南部、双方で異なった史実が述べられていたりして、短い時間でまとめることは困難であった。ということで、その2つの文化の歴史が、現在の青森県民生活にいまだに与えている影響や実情を述べる事で、みなさんには何となくでも「青森県」を感じてもらえればと思う。
歴史家をして「1つの都道府県に複数の文化が混在しているのは珍しいことではないが、青森県ほど極端な例はないだろう」と言わしめる青森。さて、あなたの目にはどう映るだろう。
自分の場合は青森県の津軽側に住んでいたわけですが、その当時は南部側に行く機会もなく縁遠いなという風に感じていました。
特に対立感情はなかったものの、しっくりこなさはあったのは確かです。
という事であらためて書きますが、津軽=(旧弘前藩・津軽氏の領地)であり、南部=(旧南部藩・南部氏の領地)と大まかになります。南部藩は岩手県北部も含まれるので、現在の青森県で言うと西半分が津軽、東半分が南部と考えると分かりやすいかと思います。
大きく考えられる両者の対立の原因は以下のようになると思います。
- 津軽氏と南部氏の遺恨
- 文化の違い
- 気候の違い
- 言葉の違い
実際のところ、庶民レベルでは津軽氏と南部氏というのは、あまり関係なかったのかもしれません。ただ、実際に方言も違えば、気候も違うし、産業も違う訳なので、お互いに分かり合えないなというのはあったと思います。
というところもあり、お互いに津軽と南部として相手方を揶揄するには都合のいい対立だったというのはありますね。
方言に関しては、Youtubeに動画があるので、それが分かりやすいかと思います。
ま、どっちも田舎は正解ですね。
犬猿の仲が一つの県に
というところで、津軽と南部は犬猿の仲だった訳ですが、それだがどいう訳か青森県という一つの県としてまとまってしまいました。
これは、単純に自分でも不思議だったのですが、これについても青森県庁の質問箱に回答がありました。
戊辰戦争後に旧会津藩が移封されて斗南県が下北半島に置かれていました。さらに、南部藩の支藩である八戸藩、七戸藩がありました。津軽領は、弘前藩と黒石藩がありましたが、弘前藩だけで他の4藩以上の石高があったそうで、弘前藩と合併する事のメリットが多いと考えたようです。
もっとも、合併後に県庁所在地は弘前から青森へ移って青森県になる訳ですが。
青森3都市問題
津軽と南部の対立から派生した問題として現代は、青森市、弘前市、八戸市の対立問題があります。対立というか覇権争いと言った方がいいかもしれません。
弘前市は津軽領旧弘前藩の中心、八戸市は南部領旧八戸藩の中心である訳なので、そこは津軽と南部の構図と変わらないのですが、県庁所在地として青森市が成立したのでややこしくなりました。
元々ただの漁村であった場所に県庁が出来たわけですから同じ津軽領の弘前としても面白くありません。
八戸は八戸で新幹線が先に開通した事などもあり、青森市に対する対抗心もあるようです。
人口的にも3市はさほど変わりなく、拮抗しているというのも問題のようです。
青森県のような規模の県で経済活動も3市に分かれているというのも発展を妨げているという話があるようですが、そちらの方はあまり詳しくないのでよくわかりません。
と言ったように、青森県内には少し面倒な事情があるというところなのです。