今年最後という事もあって、あの震災の事を今一度振り返ってみたいと思う。
日本が一変した2011.3.11
まず、あの日に事。
地震前後ツイートというサイトがあって、震災の前後でツイートした内容が表示される。
(ただし、APIの制限で3200ツイートまでしか遡れないので、既に無理な人もいるだろう。)
evernoteにその内容をクリップして置いたので、載せておく。
地震前と地震後の状況の一変が今でもわかる。
帰宅難民になった
震災後に直面した問題が帰宅難民になった事。
首都圏はJRを始めとして私鉄・地下鉄のほとんどが運休になりました。
地震があった次の日には計画停電の話が出てましたね。
まだ、3月中旬で寒かったですが、節電対策をし始めた時期です。
原発事故で変わってしまった事
そして、明るみに出た原発事故。今にしてみれば、少し甘く考えていたかもしれないと思ってます。
ただ、あの当時の情報量から判断できる事に対して、楽観的過ぎず、悲観的過ぎずという風に考えてないといけないと思い対処していたつもりです。
正直、想像以上にひどい事故だった事が後でわかりました。ただ、今わかっている情報が判っていたとしても、首都圏に住んでいる自分からすれば特に変わりはなかったかなと思う。
情報不足という点で一番の被害を受けたのは、福島県の人たちでしょう。当初、同心円上に設けられた警戒区域は意味をなしてなかった事は、その後に調査された放射能汚染マップをみれば明らかです。
genkitweetsというサイトがあります。震災直後に、百式の@taguchiさんがGoogle Docに心温まるツイートをまとめていたものをサイト化したものです。
震災後に投稿された「元気が出るつぶやき」ですが、Google Docsのデザインでは多少見にくいため、独自ドメインをとってそこにまとめることにしました。なお、こちらに移行する際につぶやきは100個に絞っています。
もちろん今読んでも、いいなと思うツイートばかりです。でも、あの当時あった一体感のようなものはなくなってしまったなという気がしてます。
月日が経過したというのもあるが、一番の要因は原発事故です。あの事故のせいで、本来まとまるはずだった人たちの気持ちがバラバラになってしまった。個々の事情や考えを優先して動かなければならなくなってしまったというのがある。
それを思うと、別の意味でこれらのツイートを見ると悲しくなってしまう。
被災地訪問
あの震災後、ようやく被災地を訪れる事が出来たのは、7月になってからだった。
もっとも被害が大きかった東北3県の中で、最初に訪れたのは、3年間住んでいた仙台。既に、ライフラインや交通網は概ね復旧していて、街に活気が戻りつつあった状態でひと安心した。
いちおう、ブログにも書いているのだが、あのとき書ききれなかった事を少し追記しておく。
あと、Googleストリートビューで被災地の状況が反映されたので、訪問時の状況と合わせて書いておこうと思う。
仙台遠征1日目 岩沼災害ボランティア
仙台遠征2日目 仙台の街を堪能
7月初めに仙台に行って、岩沼でのボランティア活動をした訳だが、バスに乗せられて移動していたので、実際どこら辺に行っていたのかは定かではない。ただ、ブログ内にも紹介されている、都城市の青年会議所から来ていて人が書いたブログ記事から推測すると、おおよそこの辺だったと思う。
大きな地図で見る
正確な位置ではないので何だが、遠くん防風林の松林が見える辺りだ。松林も津波で流されて、ここら辺一体に折れた枝や松の葉が落ちていた。このときは、既に7月だったが波を被ってしまった為に、田んぼなんかは放置されたままになっている。本来なら青々とした稲が生えている時期だろう。
2度目の訪問も7月。震災の影響での節電対策で2回夏休みを取る事になった、その1回目を利用して行ってきた。
南相馬市から、宮城県入り中尊寺に行ってから、気仙沼、松島、石巻へ行ってきた。
東北遠征 3日目 平泉中尊寺+気仙沼
東北遠征 4日目 松島+石巻
気仙沼から仙台へ移動中、R45を車で移動していた事もあり、途中で写真を取る事が出来なかったが、ストリートビューを確認したところ、時期が一緒だった事もあり、写真に撮った風景がほぼそのまま載っていた。
まず、気仙沼市街地に入ってから思ったのは、思ったより大丈夫だなという印象だった。だけど、実際浸水したかどうかは、ともかくとして道路一本挟んで被害の大きさがものすごく違うという事に気づいた。
下のストリートビューを進んでいくと、途中からどんどん被害の大きな建物が増えて行ってるのがわかる。
ここはまだ、気仙沼市内。R45に入るより前の地点。海側に近い地点だと、このくらい何もなくなっている。
続いてこちらの地点。これは、地図で場所を見つけたときに驚いた。
実は、この建物は鉄筋のアパートだったのだ。1F部分がごっそりと津波にさらわれていたのだ。このような、不自然な形をした建物があったが、それは下の階が抜けてしまっていたものだったんだ。
続いての地点は、南三陸町。この地点を探すのは一苦労だった。左右に気が生い茂っていて、建物の被害がこれだけある場所はなかなかなかったからだ。
通常山が見えているような箇所は高台になっているので、ここまでの被害が出る所がないのだ。
右手の斜面は高台だが、左手の松林の外はすぐに海。防潮林になっていたものを乗り越えて、ここまでの被害が出ていたという事だった。
写真には撮れなかったけど、印象的だった場所をピックアップしてみた。
清水川駅へと続く陸橋。途中で完全に崩壊して寸断されてしまっている。駅舎の辺りも跡形もない。これは、かなり衝撃的な場所だった事を覚えている。
大きな地図で見る
続いては志津川に向かうこの道路。両脇を山に囲まれているこの道で、両脇に瓦礫が多数残されている。
最初、なんでこんな山の中に瓦礫があるのかわからなかった。道を先に進んで判ったのだが、この先が海になっていて、この辺まで津波が流れ込んでいたのだ。
次の日訪れた石巻は、石巻駅から徒歩で歩ける辺りまでしか行ってないのだが、それでも被害の大きい場所はあった。↓のストリートビューでも、分かる通り市街地だが警官が手信号で仕切っている。
R398を右手に進むと商店街があるが、かなり津波や地震で被害を受けている店が多い。
R398を左手に進むと、より被害が大きい地域になるが、こちらは直接見に行ってないが、やはり酷かった。
石巻駅前は、それほど大きな被害があったようには、ストリートビューからは見えないが、津波直後はここまで浸水してきていたのだから驚きだ。
Googleのストリートビューが撮影された時期が7月~8月という事で、ちょうど自分が訪れた頃と重なっていて、より鮮明に覚えている場面が多い。
当時からしても、数カ月が経過しているが、更地となった場所は手付かずだろう。まだまだ、復興というには先が長いなと感じる。
今、Googleを始めとして、震災前や震災後の様子を残していこうというプロジェクトが立ち上がっている。このキオクをキロクしていく事は、後世に伝えるためには大事な事だと思う。